第7回「夢十夜」夏目漱石

  • 2008.07.25 Friday
  • 07:16

 ようやく十夜分読み終わりました。

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 夏目漱石の有名なオムニバス短編です。第○夜と小タイトルがあって、「こんな夢を見た。」という書き出しで始まる夢の話。この話を読むまでは、夏目漱石というのは現実的な地に足着いた話、どちらかといえば日記調の話を書く人だと思ってましたが、夢十夜のぶっとびぶりや、幻想的な世界の描写に、漱石こえー!と思うようになりました。以来、漱石リスペクトです。財布の中の漱石千円札は使わず取ってあります。

「自分」が見た夢の話なので、文章の語り口自体は漱石自身を彷彿させる、中年男性の声色。しかし、めくるめく世界は、十夜それぞれ調子がまったく違って、ユーモラスだったり悲しかったりホラー調だったり幻想的だったりする。突然のように終わる話に不思議な余韻が残る。

 わたしも昔メモした夢日記を元に漱石の真似をして書いてみようと思ったのですが、全然面白いものにならない。まとまらない。小説にならない。さすが漱石。ただの夢の記録を書いただけではない。そこには彼の筆や想像力がふんだんに足されているのだと思う。もしくは、こんなまとまった夢を見てそのまま書いたというだけなら、それはそれで漱石こええ。

 

 第6回「蜘蛛の糸/芥川龍之介」(10分半・完結)

  • 2008.06.02 Monday
  • 23:09

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 大泥棒カンダタが生前たった1回、気まぐれで蜘蛛を踏み潰すのをやめて助けてやった。その報いに地獄から助けてやろうと、極楽にいるお釈迦様が眼下の地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らす。その糸を発見し、喜んで登っていたカンダタは、ふと眼下に大量の亡者が同じように糸を登ってきているのに気がつく。ただでさえ細い糸なのに、こんなにたくさんの亡者が登ればますます切れやすくなってしまう。焦ったカンダタが、これは俺の糸だ、お前らは降りろと叫んだ途端、糸はぷっつりと切れて、カンダタは元の地獄にまっさかさまに落ちてしまう。

 あまりにも有名な話なので今更この小説を読む人はいないかもしれない。でも、あらすじはともかく、注目すべきはこの語り口じゃないかと思うのです。何だか不思議で奇妙な小説なんですよ。たおやかなナレーター調。誰にも感情移入しないニュートラルな立ち位置。その絶妙な宙ぶらりんさが、不思議な余韻を醸し出す。

 語り手は、カンダタの浅ましさから読者に教訓を与えようとはしない。カンダタの人間としての悲哀にスポットを当てたりしない。物語は、揺れる蓮の描写から始まって、また揺れる蓮の描写で終わる。極楽が朝から昼になっただけ、ただそれだけの話なのだ、と語るこの小説は、読者をどこにも着地させない。まるで、切れて空の中途に垂れたままになった糸のように。


 芥川の小説は、小説ごとに「声」が違う。太宰の小説と対照的。太宰はどんな話だろうが、声は太宰自身だ。もしくは太宰を反射させ投影させる鏡の声だ。だけど、芥川は違う。作品を読めば読むほど、芥川自身の声はどこにもないようにさえ思えてしまう。芥川は小説ごとにあった声で物語を語っていく。

 芥川は「小説」の声を書いていく。太宰は自身の声を「小説」にしていく。朗読をしているとそんな気がしてくるのでした。

 自分の声がない、と悩んでいるわたしは、太宰の小説を読んで泣きそうになり、芥川の小説を読むとまた泣きそうになる。そう、まだまだ少しも近づけないけれど。

第五回「犯人/太宰治」

  • 2008.05.10 Saturday
  • 10:40

 久々に朗読アップしました。二ヶ月半ぶりだ。

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 太宰治の短編「犯人」という作品を読みました。つまらぬ男のつまらぬ事件である。なのに太宰はこれを面白い小説にしちゃうのだ。面白いというか、興味深いというのだろうか。目が離せない。この主人公のあまりの平凡さにわたしは、ぞっとする。小説の世界ではドラマティックでない主人公が異様で不気味なのだ。わたしたちの多くは所詮この男のようにつまらぬ物語を生き、つまらぬ人間であるということを思い知らされる。

 わたしはよくこんな光景を夢想する。たとえばわたしは、しがない歩兵。戦に臨むわたしは、日頃の貧しさの鬱憤をつのらせ、一山当ててやるという猛々しい闘志と、これから自分の身に起こるであろうドラマに興奮して、大将の首を取るつもりですらいる。なのに、戦の火蓋が切られた瞬間、何の活躍もなく、味方の馬に蹴られて死んでしまう。そんな光景。バリエーションはいっぱいある。別にこれは悲劇的な感傷でも高尚な思想でもなんでもない。テーブルのカードをめくるように、そんな光景を夢想し、テーブルの下に放り捨てる。カードの多くは絵のない札だというだけだ。

 この作品の文章は実況中継風。たった一言で、場面が転換していく。ぽつん、ぽつんと配置された単語が、時間を確実に刻む。少しでもそれを表すことができたならいいのだけれど。

 太宰は早くに亡くなったから、全ての作品が著作権が切れていて読み放題だ。それが悲しい。この作品には現代と同じ地名や電車がいっぱい出てくる。京都の左京区の、とか。京阪電車の四条駅なんて出てきてどきりとした。

第4回「桜の樹の下には」梶井基次郎

  • 2008.02.23 Saturday
  • 22:14

朗読アップしました。7分で完結する短編です。

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 桜の樹の下には屍体が埋まっている---このフレーズ自体は有名だと思うんだけど、この短編から来てることはどれだけの人が知ってるんだろう。わたしは桜の樹の下には死体が埋まってるというのを何で知ったんだろう。CLAMPとかかなあ?

 しかし、このフレーズで驚いている場合じゃない。びっくりするくらい、暗いのです、梶井という小説家は。病的に暗い。丸善にレモン置いて立ち去る爽やかそうな有名な短編「檸檬」も、とにかく暗い。鬱々と町を歩いていく話。始終病気だらけで31歳で病死したという運命も彼の作風に影響を与えてるんだろうな。

 でも暗いからこそ、檸檬だったり桜の樹や小さな生き物が一筋の光のように鮮烈に輝く。生命の光が見える。読んでいると、光溢れる世界に慣れて鈍磨した心がはっと震える。今回、この作品を読んでみて、次の文章が彼の世界観を一番よく表しているのじゃないかと感じました。

 この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んで来る。

(「桜の樹の下には」梶井基次郎より)

 一文、一文、身を削って書いたような壮絶さがある。忘れられない。凄みがあって、投げやりさがどこにもなくてとことん真面目で、恐ろしいようなことを言っているようだけど話し手本人は格別変わったことを言っているつもりはなくて、何の疑問もなく生きている人たちの世界と、半身だけずれてしまった、そんな主人公だと思いました。実はこれ、何度も録音に挑戦してはピンと来なくて中断してる。今回病みあがり(食中毒)なのを生かして、今だ、これだ、今しかない!ってな感じで読みました。声がかすれてお聞き苦しかったらすんません。でもこういうイメージなんだよな。健康的にはきはきと読む物語じゃない気がしたのでした。

第二回「女生徒」太宰治

  • 2008.01.28 Monday
  • 08:47

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だんだん大きくなるにつれて、私は、おっかなびっくりになってしまった。洋服いちまい作るのにも、人々のおもわくを考えるようになってしまった。自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛して行きたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現するのは、おっかないのだ。人々が、よいと思う娘になろうといつも思う。たくさんの人たちが集まったとき、どんなに自分は卑屈になることだろう。口に出したくもないことを、気持と全然はなれたことを、嘘ついてペチャペチャやっている。そのほうが得だ、得だと思うからなのだ。いやなことだと思う。早く道徳が一変するときが来ればよいと思う。そうすると、こんな卑屈さも、また自分のためでなく、人のおもわくのために毎日をポタポタ生活することもなくなるだろう。

「女生徒(太宰治)」より

 一人の女生徒が朝目覚めてから夜寝るまでの思想世界を実況中継した小説。不思議な小説だと思う。どこか一部を取り出して紹介しようとして、どこを取り出しても何だか妙に居心地の悪い感じがする。太宰すげえ!って思ったこと、この女生徒の感性に感銘を受けて共感したことは覚えているのに、何が書いてあったかと問われたら出てこない。この女生徒自身も言っているように、暇に任せて思い浮かんではまた別の瞬間には忘れてしまう、そんな泡のような思考を描いているからなのだと思う。脈絡がないし、あちこち話題が飛ぶし、それにたった数分の間で彼女の気分は鬱になったりハイになったり泣きたくなったり笑いたくなったり怒ったり自己嫌悪したりと、めまぐるしく移り変わる。まるで現実のわたしたちのように。彼女が喋っているのを聞いていると、自分の胸の中にさまざまなことが去来して苦しくなって感動して共感するのに、喋り終わると忘れる。そういう小説なんだと思う。順に文字を追えばいつでも少女の心が自分の中に再生される。だが文字を追うのをやめたら、現実の煩雑さに紛れて消えていってしまう。

「ヴィヨンの妻」のような駄目男が出てくる話では、太宰の魂は駄目男の方に入っている。女は少々世俗的で鈍く、でもそれゆえにしたたかで強くて凛と美しい、駄目男の陰を照らしだすライトのような存在だと思った。でもこの女生徒には駄目男は出てこない。太宰は女生徒の中にいる。少女だって描写できるんですよという上から目線ではなく、太宰が少女になることで普段は言えない書けない彼の魂が少女の声で喋ったのだと思う。他の人の朗読を聞いて、ああ男の声じゃ絶対駄目とか、そんな年取った声は違う、若い少女の声じゃなくちゃ、とか激しく思ったのは、やはり読みながら「声」が頭の中に響く小説だからなんだろうと思う。しかもその「声」は決して太宰のものではなく、女の子の声。音も映像もない小説だから、太宰は完全に少女になれた。しかしいくら太宰の感性が鋭かったとしても、天才だったとしても、なぜどうしてここまで少女の気持が分かるのかと、元少女としてはぞっとする。覚めている意識だけでは引き出せない、無意識の物語の力がそこに働いているのだと思う。

 さて、どう読むか。実はこの作品を一番最初に挑戦したのだけど、語り手の人間味が強くて朗読より演劇に近くなる気がして、今のわたしじゃ力不足の気がして挫折したのでした。でも、他の方の朗読を聞いて、いやそうじゃない、わたしのなかの女生徒はそうじゃない。そんな嫌らしい媚びたテンション高い言い方はしないんだとか、そこまでナルシストじゃないんだ、とかいろいろ思ってしまい、えいやと自分でやってしまいました。それほど美しいわけじゃない平凡(よりちょっと上くらい)な眼鏡の少女、だけど少しだけ大人びた他の少女にはない切実さのようなものがあって美術教師に気に入られたりするのはそのせいで、鬱々といろいろなことを考えていて、大人になる不安に押しつぶされそうで、凛と生きようと決意するのだけど、自己嫌悪でいっぱいになったり、まだまだ子供っぽいところが残っていたり、ときどきナルシスティックな妄想をするのだけれど、次の瞬間には「ばかばかしい」と切って捨てるほどには覚めている。家族を愛し、友達もいる。端から見ている人間は、彼女がこんなふうにいろいろ考えて鬱々としていることを知らない。気づかないだろう。明るい元気なお嬢さんと思ってるだろう。そんな少女だと思う。思った。読みながら。聞いていて、まるで一人の女生徒がパソコンの向こうで喋っているような錯覚を起こしていただけたら朗読者冥利につきるなあと思います。まあ、それって太宰の功績なんだけどね。わたしも読みながら、一人の女生徒が自分の中にいて喋っているような気がしました。何だか、ちょっと恐かった。

 

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