津浪と人間 寺田寅彦
- 2011.03.25 Friday
- 16:51
http://www.sakkanotamago.com/roudoku.html
(16分のmp3ファイルです)
ところで、エイプリルフールっぽい朗読です。
■「百年の孤独」 G・ガルシア=マルケス (17分)
http://www.sakkanotamago.com/roudoku.html
ノーベル文学賞受賞者、ガルシア=マルケスの名前だけは有名なこの作品。なんで名前だけ有名かっていうと、「百年の孤独」っていう焼酎があるからです。んでもって、ガルシア=マルケスって響きが可愛いよね、ってなノリで名づけられた日本のヤングな鞄ブランドがあるからです。それ知ったとき脱力しまくった。ニッポンジンってなんてフリーダム…!
知られている割に読まれてないのは、新潮社がこの作品の翻訳本を出す独占契約をしてて他社には訳させないし、文庫にもしないからです。1750円だもんなあ…。ちょっと読んでみようかっていうには敷居が高いよね。池澤夏樹さんが河出書房から世界文学全集を編んでいますが、「百年の孤独」は入れさせてもらえなかったんだって。
でも大好きな作品の一つなので、人に薦めたい。
気持ちいいほど大法螺吹いてくれる。ジプシーとか村とか娼婦とか、土着的な匂いがぷんぷんするのに、何かすごくスケールがでかくて、ファンタジーで、あたたかいようなしょうもないような、大きいような小さいような。常識の基準がぶれるような、この世界にいるのがとても気持ちがいい。基本的に著作権の切れたものを朗読しているけれど、今回は著作権存続中で、作品紹介の意味を篭めて朗読してみました。そもそも無料で公開してて、数人くらいしか聞かなくて、文章を声に変換してて、著作権侵害には当たらないんだけど、さらに念を押すと、これで続きが読みたくなって買う人がいれば、著者や訳者や出版社の損害にはならないと思うんで大丈夫でしょう。駄目だったらお金払います。まあ、どんな作品なのか知りたい人とか、どうぞ。
(引用)
長い年月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。
そう、これは、ある一族が生まれ消えるまでの百年の物語。
次回の「京の発言」のエッセイは川端康成の「古都」をネタにしてるのですが、川端康成のことを調べてたら、こんな文章見つけたので朗読してみました。
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この文章は、太宰治26歳のときのもの。初期の作品「道化の華」と「逆行」が芥川賞候補になり、落とされた。そのときの審査員の一人だった川端康成が選評に「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった。」と書いたのに抗議して発表した文章。
抗議から始まって、自分の作品がいかに他の人には認められていたかを延々語って、病気や貧乏で自分の生活がいかに惨めかを語って、そんなときに川端康成の選評を読んで激怒した、と。まあ、作品には関係ないじゃん…という恨みつらみ愚痴が書いてあるんですけどさ、しかも、
「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。」
などと、典雅な趣味人の生活をしている川端への当てこすりも書いててさ。いやいや、太宰さんよ、ちょっと落ち着けよ、とか思うんだけど、でも、最後まで読むと、ただの恨み文じゃない、ぞっとした余韻が残るのでした。
わたしは彼は鬼才だと思う。その才は尖りすぎて、世間というものの中で、とても生きにくかったんだろうな、と思う。
森や草原に生えている木々や花は好きだけれど、家の中に植物を置くのは怖い。凌駕されそうだからだ。根を制限しても切ってもなお鮮やかなその生命力に。切り花は死体のようなものだと思っていた。だから自分で買って家に飾るのは怖かった。でも、彼らは彼らの別のルールで生きていて、痛いとか苦しいとか(動物のようには)感じない代わりに、何か別の時間を過ごしている。
ポートレート写真を撮るために買ってきた花。花屋さんにあったときから、少しへたれていて半額で買ってきて、撮影が終わったらその場限り、花びらを撒いたり、海に流す図なんかも素敵かもしれないなんて思ってたのに、花びらをちぎることも捨てることもできなくて、ぐったりした花を持って帰った。茎を切ってコップにつけておいただけで、みるみる鮮やかさを取り戻す彼らを見て、彼らは彼らの別の流儀で生きているのだ、と思った。
わたしの好きな詩人にフランシス・ポンジュがいる。サルトルが絶賛した詩人。彼は、「物の味方」という詩集の中で、まるで辞書のように様々な「物」を描写する。日常の言葉を積み重ねて丁寧に描写されるそれは、一人の人間の勝手な思いではなくて、あくまで物に寄り添って寄り添って、物の「味方」になって書かれた描写。彼の植物の描写が好きだ。世界に広がろうと葉を出し続けるが、木は木であることから逃れることはできない。醜くすらなれない。まるで悲しい物書きのようだから。
などとここでわたしが言ってもよさはうまく伝わらないし。フランシス・ポンジュをもっと知って欲しいなあと思って、一篇の詩を朗読してみました。訳者の著作権は存続中ですが、詩集の一部であり、30人程のアクセスしかないので大量配布には相当せず、また文字情報を声で表現しなおすのでコピーにも値せず、どちらかといえば詩集が売れる方向に貢献するんじゃないか、という判断です。こんな感じで、著作権存続中のものもこれから読んでいこうかなと思います。
詩を朗読するのは難しい。もともとポンジュの詩はフランス語で、幾重にも掛詞があって訳したものが完全に原作を表現できているとはいえないらしい。また、わたしが読むことで文字情報が欠けて、意味が誤解される部分もある(したい、というのは死体ではなく肢体のことなのですよ)。だから、原作そのもののよさから確実に劣化している。でも、劣化してでも残る絶対的なよさがあって、それは作品の魂のようなものだと思う。それを伝えたい。
種子をそっと撒きます。どこかの土壌で何かが芽吹きますように。
朗読はこちら。
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梶井基次郎の最も有名な短編です。数年前、わたしがまだ福岡にいた頃、友人を訪ねて京都に遊びに来たときに「梶井基次郎の檸檬の店があるよ」と教えてもらって感動した覚えがある。その子自身は、檸檬を読んだことがなかったのだけど。この短編、一般の人の認知度はどのくらいのものなんだろうか。京都を歩いて、檸檬を買って、丸善に置いて、それを檸檬爆弾だとか呼んで、丸善の爆破を夢想する。檸檬の店を見たとき、昔一読したことある記憶を辿って、こんな程度の話を思い浮かべた。あらすじしか覚えていなかった。でもしばらくして原作を読み返してみたら、冒頭のこんな文章にぎょっとさせられた。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
うわ、檸檬ってこんなに暗い話だったっけ。それ以来、何度か読んだけれど「暗い話」という認識は変わらなかった。でも今回朗読して何度か聞いているうちに、語り口が意外に明るいことに気がついた。憂鬱の塊は晴れない。金もない。住まいもない。芸術も味気ないものに思えてしまう。そんな状況を、淡々と受け入れているような文章だった。嘆くわけでもない。訴えるわけでもない。そういう自分の状況を、まるで通りすがりに見つけた珍しい建物を描写するように淡々と語っていく。字面は暗い。焦燥やら嫌悪やら不吉やら、そういう語がごろごろ出てくる。それなのにほのかに明るいのは、彼がその言葉に寄りかかってないからじゃないか。朗読してみて初めて、また違った「檸檬」が見えてきたような気がしました。
ところで、梶井の文章は五感をフル活用しないといけないと思った。そうしないと味わえないというよりは、意味不明で迷子になりそうになる。果物屋に並べられた色とりどりの果物の描写はこんな感じ。
何か華やかな美しい音楽の快速調(アッレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。
正直、一度目に読んだときは情景も何も思い浮かばなかった。言葉に振り回されて意味を取るので精一杯。編集のために何度か聞いているうちに、ようやく頭に入って、ああこれしかないというような情景が思い浮かんだ。「華やかな音楽」の、しかもその「アレグロの流れ」が、石化させられて固まったもの。そして、梶井のイメージの中で、音楽の流れは、石化して固まってしまうと、色彩や体積を持ってしまうのだ。
一見地味な文章なんだけど、やるじゃんという感じです。
ちなみに檸檬爆弾を仕掛けられた丸善は、今はなくなり、チェーンのカラオケ屋がそこに建っているのでした。わたしが京都に来てからの話で、結構衝撃でした。でもまあ、金のなかった当時の梶井にとって敷居が高く気詰まりだった丸善。これに取って変わって現れたカラオケ屋は、少々お高いランクのカラオケ屋なのでわたしにとっては敷居が高く、ある意味檸檬の精神は残っているのかなあと思ったり思わなかったり。実はまだ、入ったことないです。いつか、檸檬持って進入しようと思います。